【書評】スマナサーラ長老~日本に来た上座仏教~


スマナサーラ長老の本

アルボムッレ スマナサーラ長老
アルボムッレ スマナサーラ長老

一応断っておきますが、読者である私の宗派は大乗仏教です。といってもみっちり学んだわけではなく大骨を知っている程度です。今までは自力で悟りをコツコツ開いてきて、お釈迦様が悟りを開かれた頃にも似たような大きな悟りを開きました。ですがこの頃自分の能力に限界を感じたため、自由自在の金剛心を得たくてスマナサーラ長老の本をいくつか読んでみました。


実践する仏教

スマナサーラ長老の本は仏教を生活で実践するための方法が述べられています。読んだら心が軽くなる類の自己啓発本とは違い、自分そのものを訓練して教育して修行するための本です。ですので本当に暇な時に実践しないと逆に混乱してしまうこともあるかもしれません。私も多少の混乱が生じましたが、脳を休めたら、ひらめきを得るような形でわかるようになりました。

ポイントは妄想(思い込み)

我々が苦しむ原因は、妄想(思い込み)にあるといえます。ある場面になると「緊張する」「行きたくない」「苦手な感覚が生じる」「怒りが生じる」これらはすべて自分の思い込みによるものだとお釈迦様はおっしゃいます。私の自分の言葉で説明させてもらいますと「ある会議(授業)になると緊張するので行きたくない」という思い込みがあったとします。その人が実際に現場に行くと必ず緊張するようになります。これはまさに思い込みから生じた緊張です。最初は偶発的に不快な思いをする現象があったはずです。それが行動心理学で言う条件反射となりパブロフの犬と同じように不快を学習しているのです。

私も日常生活で容易に条件反射をつくることができるので、それに気づいて修正することが大小のトラウマや誤認知を修正するポイントになります。つまり「わかる」「悟る」「気づく」というのは「自分の条件反射がわかるようになること」なのです。

これと同じことがスマナサーラ長老の本に書かれています。

では思い込みはどこから来ているのでしょうか?ここも私が自分の言葉で説明したいと思います。長老の脳の知識はちょっと誤解があるようなので。
  1. 出来事に偏桃体が反応して脳が興奮する(脳みそがカーッとなる)
  2. 似たような場面を回避するようになる
  3. 苦手だ行きたくないと言葉(前頭葉)で自覚するようになり避ける
  4. 条件反応のループが繰り返される
大体脳の仕組みはこんな感じです。スマナサーラ長老は条件反応ではなく妄想が続くと表現されていらっしゃいます。私は条件反応という言葉のほうが好きなのでそう書いておきました。

大体世の中に出ればこういった、頭がカーッとなるような場面は職種によっては多い場合があると思います(例えば病院関連や対人関係、情報処理の仕事など)。そこで嫌な出来事と自動で脳が処理してしまうと持続的なストレスになって脳がヒートアップして消耗してしまいます(いわゆる鬱)。パソコンを使う仕事では「消耗した感覚」は日常的なものなので、いちいち鬱とは思いませんし、パソコンやタブレットを離れて寝たら治ると知っています。iPhoneやスマホの使い過ぎや勉強のし過ぎや考えすぎは脳みそを疲れさせてしまうことは言うまでもありません。ここで寝て脳を休ませれば明日も回復して働けます。しかし勉強しすぎ、スマホ使い過ぎ、悩みすぎ、生理的な現象(性ホルモンや体の病気)で脳が興奮しすぎて眠れないと次の日は鬱になります。これが大体の鬱の原因であると私は思いますし、実際に睡眠不足が原因であると言われています。脳みそが消耗した状態では判断を誤りやすくなります。そしてまた悪い条件反射を作り出してネガティブな反応が増えていくのです。

思い込みに気づけ

上座仏教でも大乗仏教でも仏様というか、お釈迦様は「気づけよ気づけ」と繰り返しおっしゃっています。道元禅師も「仏道をならふというふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」とおっしゃっています。

瞑想や禅では自分を見つめる訓練をして思い込みに気づく作業をしたり、感情的に反応しないという訓練をします。

自分は変えられるというか、不変ではなく無常

つまり自分で自分について学習するということです。道元禅師が言っている自己というのはスマナサーラ長老がおっしゃっている自我とほとんど同じ意味だと思います。今回は長老の「自我」という言葉を使いたいと思います。長老は「自我から離れる」と述べられています。これは道元禅師がおっしゃった「自己を忘るる」とほぼ同じ意味であると思います。梵語でアートマンという言葉は「我」を意味します。ブッダはこのアートマンを否定されました。つまり諸行無常の世の中だから「我」というのも無常(変化して同じではない)と。生物学の福岡伸一氏も「自分の体は1年前とは別物である」とおっしゃっています。日本で俗にいう「無我の境地」というのはこの我が無いことに心から気づいた悟りを意味しているのだと私は思います。つまるところ我というのはあるという思い込みの塊であると。我が無いのにあると思い込んで苦しんでいるのが私たちなのです!


幸せになる方法

つまり、ストレスが無いのにあると思い込んでいる。嫌いでもないのに嫌いと思い込んでいる。良いと思っていることもまた思い込みです(例:時代ごとに変わる価値観)。

だから心を快適にしようと思ったら実践すれば実現するのです。幸せになろうと思えば幸せになれるのです。これが仏教の考え方なのです。大乗仏教では念仏を唱えると極楽に行けるというのも、悪いことを考えて不幸になるよりは信じて願ったほうが全然マシで天国と地獄の差があるからなのです。我々が何らかの宗教を信じていることもまた「ないものをあると信じて」いるわけです。信じている人には神仏がリアルに(脳の中に)存在するのです。だから「幸せ」も信じれば実現可能なのです。「ストレスは無い」とわかれば快適なのです。頭の筋肉や脳味噌が疲れたら体を横たえて休めばそれで終わりなのです(仏教では睡眠に対しむさぼりを禁じていますが健康のためにはしっかり寝たほうがいいですw)。

スマナサーラ長老の本の紹介

ここで私の演説から本題のスマナサーラ長老の本に戻ります。私はKindle Unlimitedや古本でいくつか氏の本を読みました。読んだ長所は頭がボンバーになりましたが、脳みそが自動で情報を処理してくれるので日が経過すると内容を理解することができました。
まずは「心を整える8つの脳開発プログラム」です。この本を読む注意点は、帯状回や偏桃体、視床下部や原始脳と例えていることです。
  1. 鵜呑みにする癖をやめる
  2. 思考、妄想を管理する
  3. 言葉を管理する
  4. 行為を管理する
  5. 仕事を選ぶ
  6. 努力する
  7. 目醒める
  8. 集中力をつける
8つの訓練内容はこれで、私も詳しくは覚えてないのですが(笑)どれも実践はたいへんそうですが、やりがいもありそうですし、楽しそうです。だって鍛えるだけでマシな人間へと成長するのですから。2番目の思考や妄想を管理するというのは、なかなか厳しそうですね。どんなに訓練された人でも完全にそれを捨てるのは無理でしょう。でもやらないよりはやったほうが楽しく暮らせるというなら、やらない手はありません。

より理解するために読んでおきたいのがこの瞑想実践編です。気づきや瞑想によって自分の欠点が発見されたとしても、落ち込む必要はなく気づけることはよいことなのです。これだけは注意しておきたいポイントで巻末にも書かれています。

私たちはよく自己嫌悪に陥って持続的に暗くなってしまいます。そして暗いのが性格であるかのように錯覚してしまいます。他人もまた人のことを思い込みで性格を決めつけて思い込みのループが出来てそれに自分が影響されることがあります。ですが仏教では自分の悪いところに気づけるというのはよいことなのです。性格の弱点は修行で修正していけばよいのですから。性格は治らないと西洋医学でよく言われますが、そんなことはありません。自分で修正することは可能ですし、体の細胞は常に入れ替わっているのです。要するによくないパターンのコピーをなくせばよいのです。感覚と感情と思考のネットワークを壊して再配線すればよいのです。もしもビジネスで成功すれば「おかげさまで」と言って過去の苦労も必要なことと肯定するでしょう?それと同じで嫌な出来事もよい結果が得られたら「おかげさまで」となるのでくよくよし続ける必要すら無いのです。

私の解釈ですが、怒るのは怖いからです。もちろん不安も同じです。怒るのが闘争反応であるのに対し、不安は逃走反応です。どちらも同じ現象ですが、表現方法が違うだけなのです。どちらも脳のエネルギーを消耗しますので、血管や細胞が壊れます。元気もなくなります。消耗しすぎると鬱になり余計に心配になりますが、糖質を摂れば回復する単純な現象です(笑)スマナサーラ長老はそこまで脳科学のことは知らないみたいなので、とにかく怒ることが毒であると表現なさっておられます。同じことです。狩りや戦争をしていた時代には必要な能力でしたが現代で怒るというのは無駄なエネルギー消費なのです。現代日本では警察官やスポーツ以外にこの機能は必要のないことなのです。使っても一時的に限定したほうがよい奥の手なのです、だって疲れるから。

ということで、スマナサーラ長老の本は他にもいろいろあります。亡くなられた中村元さんの本もいいですが、スマナサーラさんが話し言葉で述べられているほうが簡単なので理解しやすいです。道元禅師の本でも、昔の仏教のお経でも、大体趣旨は同じです。ただし、新興宗教はヤバいのでやめときましょう。長老の本を読めば、伝統的な大乗仏教でも決して「修行」を否定しているわけではなく、むしろ日常の中で実践するようになっています。ですが現代の家庭では従来の仏教は形骸化してしまって各自が自らの意思で求めなければ理解できないまでに来ています。現代の知識を総動員して無宗教で悟れる人もいるようですが、長い試行錯誤の過程があったと思います。どちらにせよ同じことなので、学んでおいて損はないと思います。

怒ったり不安になったりしては長生きできない!

私がこの頃実感するのは、やたら怒る回数が多かったりビビる回数が多い人は長生きできないんじゃないかと思います。そういう人は60歳あたりで脳の血管にガタが来たりしています。働きすぎの人や睡眠時間が短すぎる人も寿命が短くなると思います。脳をしっかり休めることでしか脳の血管の健康を保つことができませんので、本当に幸せになりたいのなら、やはり怒ったり不安になったり、ストレスになる考えをやめるしか道はないと思います。華麗にスルーするのが健康の秘訣です!!!自分が大事と思うなら嫌な事はスルーしちゃいましょう。本当にスマナサーラ長老が教えてくださることは理に叶ってますね。

怒鳴る人や悪口を言う人を徹底して避けよ!

やはり健康に生きたいなら怒鳴って他人の脳を壊そうとする人や、悪口で他人の脳を壊そうとする人を避けなければなりません。そういう人が組織の身近にいると、脳が傷つきます。誰しも大なり小なり他人にこうやって脳みそを傷つけられているものですから世の中には頭の悪い人がたくさんいるのです。そう思うとああそうかと納得です!結婚するなら大声で怒鳴る人や悪口を言う人は避けなければなりません。それが健康な子孫を残す秘訣だと私は思います!避けられないなら物理的にその人の声が聞こえないところに行くしかありません。静寂を愛する人こそ幸福に生きるための伴侶に相応しいでしょう。

人間は賢くない

自分を観察していると、正しく物事を認識していないことに気づかされます。がっかりしてしまいますが、それが自分です。アホなくせに他人と成績を比べたり、あれこれ比較して一喜一憂することは本当に無駄なことだとわかりました。自分が賢いか賢くないかという基準は文部省が作った概念です。ですのでいつまでもその基準に縛られる必要はありませんし、苦しみがあれば勉強できないのは当たり前であり、元気な時には誰でもそこそこお勉強することはできるのです。松岡修造の「やればできる!」というのはまさにそれなんです。テレビやスマホを見ていては勉強できないのは当たり前です。それよりも、賢くなるというのはアホな自分に気が付いてそれを修正できることだと私は思います。

日本語はスピードが遅いので、思考しようとすると言葉が視界に映った現象に対応し切れません。ですから日本人は右脳で反応するとも言われています。それはある意味事実なのでしょう。論理的になろうと思えば英語で思考したほうがよいかもしれません。訓練していればこのことにすぐ気づきました。ですので言葉での対応は後にして、その場は何も考えないほうが安全でしょう。あまりに急ぐと変な言葉が出てきます。できるだけ正確な言葉を与える訓練は必要だと私は実感しています。

歳をとると「あれだよあれ」と言うのと同じで、言葉を出すには時間がかかります(笑)それくらい日本語は不便な言語です。

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